第弐章 コーリアン美女と夢のひととき
水谷は34歳、妻子持ちだ。工業用ロボットを製造する機械エンジニアだ。
彼の実直な性格を気に入って、いつも贔屓にしてくれるのが、親会社の部長、長家泰三だった。
この日も、ロボットの据え付けを終えた水谷を連れて夜の街へくり出した。
長家にしてみればガチガチの機械屋をフニャフニャニして酒の肴にする腹づもりだった。
3軒目にいった店が問題のそれだ。
世間は不景気で、繁華街も沈滞気味だった。でもここは違った。
13階までスナック、バー、クラブで埋まっているそのビルの7階でエレベーターが止まると、ここだけは人口密度が濃い。エレベーター前に帰る客の集団がドッと居て、それを抜けるとフロアに活気が渦巻いていた。
その中でも韓国文字で何と書いてあるか判らない店へ、水谷は連れて行かれた。
店の名前は、漢字で明洞(ミョンドン)と読むらしい。
中は想像するより広かった。中央に広目の通路があり、その左右に豪華な、10人は優に座れそうなフカフカの白い皮張りソファーが、コの字型に左右10セット配列されていた。一番前に少し段差をつけたステージがあり、グランドピアノが鎮座している。
店の女の子は、当然、コーリアン美人ばかりだ。背は高くないが、スレンダーな感じの女の子ばかりで、水谷には驚きだった。
「韓国の女の子はこんなに可愛い娘ばかりですか!」
感動で思わず声が大きくなってしまった。
長家は常連らしく、もう水谷の話など聞いていなかった。
水谷の席にきたのが、また可愛かった。胸元が大きくえぐられたブラウスに同系色のミニスカート。ショートカットで大きめの目、小ぶりの鼻と口。まるで水谷の好みを知っていたかのような、店の絶妙なアレンジだった(単なる偶然だが)。
長家は、巧みに韓国語を喋り、女の子を笑わせていたが、技術屋の水谷にそんな器用さはない、韓国語も皆目見当も付かない。こんな美人を前にして喋れないもどかしさが水谷は悔しかった。
すると、彼女が顔を寄せて
「あなたいくつですか?」
と日本語で聞いて来た。
彼女が日本語がしゃべれるなんて、考えもしなかった水谷は嬉しくて
「はい、34歳です。」
とその場で、直立不動にでもなりそうな勢いで丁寧に答えた
「に、日本語しゃべれるんですか?」
水谷は、声が裏返って聞いた
「ええ、私、日本は2度目だから」
「そうなの。へーつ。意外だ、いや、うれしいなァ。すごいなぁ。へー。」
水谷は何を言ってるかわかっていない
「名前はなんてお呼びするのかしら?」
「僕、名前、水谷裕介、34歳ある」
どっちが日本人か判らない会話だ。
緊張と上気から水谷は、出された水割りを一滴も飲んでいない事に気付いた。
それをグイっと飲み干すと、
「名前教えてよ」
ようやく普通に喋れるようになった。
「イー・ボニョルです。」
「イーちゃんだね。ぼくミーちゃんだよ」
二人はぎこちなく笑った
しばらくして、イーが水谷の左の耳もとで
「明日、逢いたいの、時間ないですか?」
「ええ!!?」
水谷は自分の左耳を疑った。
こんな可愛い子が、僕に「あいたい」と言った
「アイタイ」「あいたい」「逢いたい」。
左耳から入った声が、カタカナから、ひらがな、漢字になって脳みそに到達した時
水谷は幸福の頂点に達した。融通の効かない技術屋は中高生並みに恋愛用語に弱い。
夢見心地の時間はあっという間に過ぎ、水谷は家に帰った。
もちろん、翌日の約束は"くどい"くらいイーちゃんと確認する事を忘れてはいない。
家に帰り、妻の寝顔が実に貧相に見えた。すぐ背を向けて水谷は寝た。
翌日、仕事を抜けて、約束の時間ピッタリに、待ち合わせのグランドNホテルのカフェルームに水谷は到着した。イーはやや遅れて、ブランドモノの高そうな黒のTシャツ、ジーンズのミニスカートと昨夜とは全然違う若々しいファッションで表れた。
「昼間見ると、色の白さが一段と映えるな」
と良いように解釈して水谷はコーヒーを一口すすった。
席に付いたイーは昨夜の積極さは影を潜め、オーダーしたトマトジュースが運ばれてくると、
塩を振りながら少しづつ飲んだ。
これは、何かを待っているサインだ。水谷は再び良いように解釈してコーヒーをもう一口すすった。
水谷は朝からここまで何も仕事はしていない。この事だけを考えて半日過ごしたのだ。
このまま時間を潰して店の開店時間に同伴で入るのが彼女のねらいの一つ。
あわよくば、そのまま彼女の指命客に水谷を加えるのが二つ。
時間を潰す間、ホテルに入ってお小遣いをねだるのが三つ。
水谷にしてみれば、最初の二つは願い下げだった。第一、金がかかり過ぎる。あの店は見るからに高そうだ。一回いってボトルを入れたら10万近い。そんな店の常連には安サラリーマンは無理だ。
狙いは三つ目の彼女とホテルへ入ってベッドを共にしたい。それ一本だ。そのために、朝、銀行からへそくり5万円を降ろしてきた。交渉次第だが最低でも3万円、高くて5万円だせば彼女も嫌とはいうまい。水谷は勝手にこの後の予定を想像してコーヒーをもう一口すすった。
「わたしの家、今、大変なの。」
イーがしびれを切らしたように話だした
「お母さんが病気だし、弟はソウルの大学へ入学だからお金がいるの。」
きたきたきた、という感じでイーの話に耳を傾ける水谷
「毎月どのくらい仕送りしてるの?」
「まだ少ししか送れないの」
ようやく昨夜のイーの色っぽい仕種が戻ってきた。
「僕にできる事はしてもいいよ。」
できもせんくせに水谷は大きく出た
「ほんと!うれしー!」
この女もよーやるわ
「今日はこれからどうしよう?」
水谷が聞いた
「どこかで時間潰して、お店に同伴して」
イーは色っぽく言った。
「いいよ、イーちゃんはいくらほしいの?」
遊び慣れてない水谷は、いきなりぶしつけな質問をした。
イーは他のお客に聞こえてないかと回りを見渡したが、
幸い、お客の少ない時間帯でその心配はなかった。
イーはそっと指を3本立てて水谷に見せた
それを見た水谷は3万円と解釈して、自分の手を伸ばして、イーの手の小指をもう一本立ててやった。
4万円払うよ、という合図だ。
イーは嬉しそうに、でも話が簡単に決まり過ぎた不安から、小声で
「ほんとにいいの!40万円で。」
「はあぁ!?40マンエン」「40まんえん」「40万円!!!!」
漢字の40万円=4万円×10。の意味が水谷の脳みそに到達した時、
離れて座っている他のお客に聞こえるくらいの大声になっていた。
そのすぐ後、イーは、モノも言わずに立ち上がって、疾風のごとく消えた。
「なんで一回ホテルに行くのに40万円もいるんや、
全盛期の山口百恵でも100万円だって週刊誌に書いてあったのに。」
水谷は声に出さないでこの長文を反芻していた。
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