■1974 富士GC
この年、生沢は、英国GRDにボデイなしのシャーシのみをオーダーした。ボデイは富士の高速コースを意識して日本のノバでモディファイ、日英混血のGRD-S74がここに誕生した。
しかし、第2戦で富士の30度バンクで多重クラッシュ、風戸、鈴木、中野の3人が他界。人気と共にヒートアップする一方の富士GCは最初の過度期を迎えた。 |
■1976 全日本GC.Driver's Championship
Pos | Driver | Tyre | Machine | Rd.1 | Rd.2 | Rd.3 | Rd.4 | Rd.5 | Total |
1 | 高原 敬武 | BS | マーチ74S・BMW | 20 | 20 | 1 | 12 | 15 | 68 |
2 | 生沢 徹 | BS | GRD-S74・BMW | 3 | 1 | 20 | 20 | 12 | 56 |
3 | 藤田 直広 | DL | シェブロンB23・BMW | 12 | 10 | 15 | 15 | 0 | 52 |
4 | 佐藤 文康 | DL | マーチ73S・BMW | 6 | 8 | 8 | 4 | 4 | 30 |
5 | 北野 元 | DL | マーチ74S・BMW | 2 | 15 | 2 | 10 | 0 | 29 |
6 | 星野 一義 | BS | マーチ74S・BMW | 1 | - | 6 | 1 | 20 | 28 |
7 | 高橋 国光 | BS | マーチ73S・BMW | 15 | 0 | 1 | 0 | 10 | 26 |
8 | N.ニコル | BS | マーチ74S・BMW | - | 2 | 1 | 8 | 8 | 19 |
9 | B.エバンズ | BS | アルピーヌA441・ルノー | - | 12 | - | 6 | - | 18 |
10 | 長谷見 昌弘 | DL | マーチ76S・BMW | - | - | 12 | 3 | - | 15 |
■1976 全日本GC
76年、ようやく予備のBMWエンジンを手に入れた生沢は、思いきりアクセルを吹かして第3戦、第4戦と連続優勝。しかし、チャンピオンは同じ2勝の高原敬武(4年連続)に持っていかれた。
|
■1977 富士GC.Driver's Championship
Pos | Driver | Tyre | Machine | Rd.1 | Rd.2 | Rd.3 | Rd.4 | Rd.5 | Total |
1 | 生沢 徹 | BS | GRD-S74・BMW | 12 | 20 | 12 | 10 | 10 | 64 |
2 | 星野 一義 | BS | マーチ74S・BMW | 20 | 3 | 0 | 20 | 20 | 63 |
3 | 片山 義美 | DL | マーチ74S・マツダ | 0 | 15 | 0 | 12 | 12 | 39 |
4 | 従野 孝司 | DL | マーチ76S・マツダ | ns | 1 | 20 | 0 | 15 | 36 |
5 | 鮒子田 寛 | DL | シェブロンB36・BMW | 6 | 10 | 6 | 3 | 3 | 28 |
6 | 佐藤 文康 | DL | マーチ73S・BMW | 8 | 6 | 2 | 6 | 4 | 26 |
7 | 桑島 正美 | BS | マーチ73S・BMW | 1 | 8 | 15 | 0 | 0 | 24 |
8 | 高原 敬武 | BS | マーチ73S・BMW、紫電77・BMW、シェブロンB36・BMW | 15 | 0 | 0 | 2 | 6 | 23 |
9 | 長谷見 昌弘 | BS | シェブロンB23・BMW | 10 | 1 | 10 | 0 | 1 | 22 |
10 | 藤田 直広 | DL | シェブロンB23・BMW、シェブロンB36・BMW | ns | 1 | 1 | 15 | 2 | 19 |
■1977 富士GC
4年連続GCチャンピオンの高原は、余裕でムーンクラフト製の富士スペシャル、紫電77・BMWを持ち込んだが、なかなかセッテングが決まらずシエブロンを持ち出したりして23ポイント、8位に終わる。
高原の不調により、シリーズは生沢と星野とのマッチレースに。1勝と全戦4位以上、完走率100%の生沢が、日本一速い男を1ポイント差で上回り、遂に待望のGCチャンピオンに輝いた。
生沢のGRDが起こした"富士スペシャル"というムーブメントが、高原の紫電77を生んだ。成績は芳しくなかったがその美しいロングテールデザインは、その後の富士GCに多大なる影響を与えた。
この年を境に生沢は現役ドライバーから少しずつ退いて行った。生沢はI&Iレーシングチームの監督として中嶋悟に生沢DNAを託した。10年後、その中嶋が日本人最初のフルシーズン・F1ドライバーとなった時、生沢の名前はサーキットから去っていた。
かって、日本中を熱狂させ、細身のカラダでトヨタ、ニッサン、ミツビシなど巨大なワークスに挑み、時には勝利した元祖日本レース界のカリスマが、F1の解説にすら登場しないのを寂しく思うのは筆者だけか。
2005年11月、鈴木亜久里がメイドイン日本のF-1チームによる2006年F-1参戦を表明した。ドライバーは佐藤と本山か。或いは高木虎か、はたまた外人か?
生沢が20年前に目指したそれが、ようやく現実になった。しかしエントリーするだけなら意味がない。果たして、ソフトバンクとホンダのサポートがどこまで続くか、といった不安が今度は沸いてくる----。
そして、あまりにも速すぎた生沢は、人々の記憶に残るだけで、あっさりピットインしたままだ。
でも、エンジンもマシンも壊れていない、タイヤを替えて、ガス補給すれば再びピットアウトするのは可能だ。
1972年、生沢が英国GRDに制作させた富士GCスペシャルS72は、レースギリギリの日本到着だった、雨が止まない富士のスタンドには多くの生沢教信者が陣取っていた。しかし、レーススタート後もGRD・S72はピットで調整してる。
「とにかく、今日は走る。」
コクピットから動かない生沢に気押されるようにピットクルーは必死の作業を続ける。
そして、ついに、生沢GRDが走り出した。雨は一向に止む気配はなく、スポーツカーはアクセルを踏めない。柳田のフェアレディZが首位を走行している時にだ。
走り出した生沢は、アクセルが踏めないシエブロンやローラーを尻目に、凄いスピードで富士を周回しはじめた。教祖の水上走行に信者は大歓声だ。
水すましがスイスイと河を渡るように、生沢はハイドロプレーニングを起こしながら富士の直線、コーナーを猛スピードで走っていた。もはや順位は関係ない、ただ、生沢と水中翼船GRDの華麗な水上ショーが見られただけで満足だった。
極細のレーシングタイヤを雨の富士用に用意していた生沢の独演会だったが、そのシーンは今も脳裏に焼き付いている。
ゼッケン37、白い生沢のマシンがふたたび舞い降り、丹頂鶴のごとくサーキットで円舞する姿を筆者はまだ諦めていない。
<文中敬称略で使用させていただきました。>
2005.07November wrote
|