福沢幸雄、川合稔と続くイケメンレーサーの系譜
職人肌のドライバーが多い日産に対してトヨタは華やかなドライバーが多かった。
最初が福沢諭吉の血統をもつ福沢幸雄、彼は2世で英語がしゃべれて、長身でなんとファッションモデルもこなしていた。生沢がヨーロッパへ渡ってしまった後の日本レース界のニュースターだった。
彼がテスト中に不慮の死を遂げた時、恋人といわれた歌手の小川知子が、番組"夜のヒットスタジオ"で涙を流しながら当時のヒット曲「初恋の人」を歌った事がさらに大きな話題となった。
福沢の死は、生沢が日本グランプリで勝利した翌々年.1968年でトヨタ-7というグループ7マシンをヤマハのテストコースで開発テスト中の出来事だった。
続いて川合稔。彼もハンサムで長身。トヨタにはかっこいいレーサーが一杯いる、と芸能界でも有名だった。当時のレースは時代の最先端でファッション、芸能界となにかと結びついていた。その川合稔も、福沢なき後のトヨタのエースとしてアメリカのカンナムに挑戦する矢先、鈴鹿の110Rで他界してしまった。
この時、小川ローザが泣いた。
小川ローザとはガソリンのコマーシャルで一躍人気者になった歌手ではないタレントだ。あまりにも話題になり過ぎるレーサーの死が立続けに続いたせいか、トヨタは川合稔が死んだマシン"トヨタ7ターボ"の開発を中止してしまった。レース専門部署のワークスも解散の憂き目をみた。

トヨタハンサムレーサーの系譜、最後を飾る"見崎清志"はその時期にワークスで頭角を表してきた。福沢幸雄、川合稔と同様長身でハンサム、しかもレースでも速い。トヨタがレース活動をしていれば下手すると二人の先輩と同様、サーキットに散っていたかもしれない。トヨタのワークス解散によって、彼は死ななかった? |

もっぱら市販車のレース仕様での活動が主体となった見崎は次々と優勝を勝ち取っていった。市販車のレース仕様といっても、トヨタ系のチューナーが改造したスペシャルマシンで、セリカターボ、スターレット16V、スプリンター、カローラなどいずれもハイレベルなマシンだ、インドネシアまでカローラで遠征して優勝した事もある。
ワークス解散後の71年には、
"ヘアピンサーカス"なる映画の主演もこなした。友人をサーキットで失ってレース界を去った妻子持ち男に見崎が扮し、当時はやりの暴走族たちが一般車を追いかけ回して事故させるという劣悪な遊びに、押さえていた元レーサーの血が騒ぎ、江夏夕子が----でその怒りが頂点に達し、群がる暴走族達を次々とコーナーへ追い込み全員をクラッシュさせてしまうというストーリーだった(たしか?)
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市販車ばかりのレースは風の当たるマシンに乗りたくなる。トヨタの所属を離れたことで見崎は
当時人気の富士GCシリーズにもマーチBMWでエントリー。'82年'83年の世界スポーツカー選手権/富士で連続クラス優勝(マーチ73Sトヨタ)、83年からはF−3にも挑戦、自身フォーミュラ−に乗った事がなかったので、がその理由。その後、グループAに転じフオードシエラで総合2位。88年からはかっての盟友、舘信秀のトムスでカローラを駆りシビックの連勝を止めた 。2000年ルマンにカテゴリーAで参戦、初参戦でクラス優勝をゲット。かってインドネシアで優勝した縁で現地のデーラ−とのビジネスも継続中らしい。
トヨタハンサムレーサーの系譜の最後を飾る見崎清志は、死ぬ事なく今も現役だ。
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<文中敬称略で使用させていただきました。>
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