UKYO.jpg
片山 右京:Ukyo Katayama
1963年 5月 29日生まれ
ヲ 出走回数  : 97 / 95戦
ヲ 決勝最上位  : 5位 ( 2回 )
ヲ 予選最上位  : 5位 ( 2回 )
ヲ ファステストラップ   : -
ヲ 通算獲得ポイント  : 5点
ヲ シリーズ・ベスト  : 17位 … '94
1994 Season
Rd.
Grand
Prix
DriverTeam
Chassis
Engine
TyreQuRa
Rd.1
ブラジル
片山 右京ティレル 022 & ヤマハ V10G105
Rd.2
パシフィック
片山 右京  ΔG14Ret
Rd.3
サンマリノ
片山 右京  ΔG95
Rd.4
モナコ
片山 右京  ΔG11Ret
Rd.5
スペイン
片山 右京  ΔG10Ret
Rd.6
カナダ
片山 右京  ΔG9Ret
Rd.7
フランス
片山 右京  ΔG14Ret
Rd.8
イギリス
片山 右京  ΔG86
Rd.9
ドイツ
片山 右京  ΔG5Ret
Rd.10
ハンガリー
片山 右京  ΔG5Ret
Rd.11
ベルギー
片山 右京  ΔG23Ret
Rd.12
イタリア
片山 右京  ΔG14Ret
Rd.13
ポルトガル
片山 右京  ΔG6Ret
Rd.14
ヨーロッパ
片山 右京  ΔG137
Rd.15
日本
片山 右京  ΔG14Ret
Rd.16
オーストラリア
片山 右京  ΔG15Ret
ukyoutitle.jpg

UKtayama.jpg
右京がF1でトップを走った時

1991年、念願のF3000のチャンピオンになった段階で、右京のステージは世界の最高峰[F-1]にあがった。ファミコンの敵を倒してステージが上がるように、28歳の片山右京は、中嶋悟、鈴木亜久里についで3人目のレギュラーF-1パイロットの座を射止めたのだ。日本の景気がバブル崩壊の兆しが見え始めた頃だ。その景気のせいか、右京の座ったコクピットは、あまり恵まれていなnakajima.crush.jpgかった。ヴェンチェリー・ラルース チーム。鈴木亜久里が90年に鈴鹿で表彰台に登ったチームだが、日本のスポンサーが降りた後の残骸のようなチームだった。
全16戦中、リタイア8戦、最高位が9位。ポイントはゼロ。中嶋が前年引退し、亜久里がフットワークで苦戦している時期だけに、新参者の右京の成績は日本人にとって落胆させるものだった。
F1で順位をひとつ上げるのは想像を絶するほど大変だった。右京にとって過去のレーサーとしての栄光は砂塵のように吹き飛んだ。改めて日本と世界のレベルの差を痛感した年だった。

TYRREL1.GI翌、1993年。エンジンをヤマハのO12型V10を積んだ名門にテイレルチームに移籍。かって、グランプリ通算23勝、スチュワート 、セヴェールに始まりピータソン、シエクター、アルボレート、カペリ、アレジなど新人を育てて勝つ古豪のコンストラクターも、80年代のターボF1時代を境に予選グリッド後方グループに埋もれていた。
カミカゼ右京もこの後方グループから脱出できずにシーズンを終えた。全16戦中リタイア11回、最高位10位。やはりポイントはゼロ。
ほぼ絶望的な2シーズンを過ごして、右京の価値はテイレルの予選グリッド以上に落ち込んだ。
まだ引退する理由もない、右京が日本から持ち込んだヤマハエンジンも本領発揮には遠い状態だ。2輪メーカとして覇を競ったホンダがF1最強エンジンを誇っているこの時期、ヤマハとして 引くに引けない。この右京とヤマハの意地がようやく結果に結びついたのが翌、1994年だ。

ukyoup_2.jpg三月の開幕戦ブラジルGPで、予選で初めて10位に入り、決勝では5位に入賞、初めてポイント2を上げた。去年と比べクルマが格段に進化したのだ。そして、欧州ラウンドが始る5月1日、第3戦サンマリノGP。その7周目、青いウィリアムズ・ルノーが、高速で下りながら左カーブしていくタンプレロコーナーで突然コースアウト、コンクリート壁に激突し、右京の目の前にはねかえってきた。ステアリングを切って避けるのが精一杯で、それが、カーナンバー2、アイルトン・セナのだとはその時、気づかなかった。 全コース赤旗の停止信号が出たので止まっていると、ミハエル・シューマッハがマシンから降りて来て、「今のを見たか。セナのクルマだ」と言った。シューマッハのその言葉で、はじめてセナが事故を起こしたことを知った。あのコーナーでのクラッシュは相当大きな事故であることはまちがいない。しかし、セナだったら大丈夫なはずだ。誰もがそう思った。まさか、あのセナが死ぬなんて露ほども考えていなかった。
日本と世界の差を痛感した2年間は、セナを筆頭に、プロスト、マンセル、ピケなどのF1トップドライバー達との途方もない「距離」を感じた。それどころか、ベルガー、アレジ、シューマッハまでも遥か彼方に感じた。その頂点に位置するセナが、簡単に死ぬなんて事はあり得ない-右京はそう思っていた。

 セナの事故処理も終り、レースが再開された。シューマッハと首位争いをしていたベルガーがセナの死を知ってレースを棄権、5位を走っていた右京はジリジリと順位を上げ、ついにシューマッハに続いて2位を走ることになった。自分の前には一台しかいない状態だ。2周後トップのシューマッハがタイヤ交換のため、ピットインした。右京の前には、セナもマンセルもシューマッハもいなくなった。右京は1位を走っているのだ!もし、このままレースが終われば日本人ドライバー初のF1優勝だ!2年間ポイントゼロのドライバーが、突然、目覚めて優勝する!過去のF1では稀にある記録だ。それが自分なら、こんなに興奮する事はない。
夢見心地の右京のトップ走行劇も、コントロールタワーでは、さして驚きもしない。このまま右京が、ティレルが、トップでチエッカーを受けるなんて誰も思っていないからだ。その証拠に、右京が1位の間、レースボードには何の表示もでなかった。結局、このサンマリノGPは五位でゴールイン。ポイント2点を追加した。
右京がセナの死を知ったのは、レースが終わり、アパートのあるモナコへ帰る途中のサービスエリアだった。テレビが早口のイタリア語でセナの追悼番組を流していた、そこにはヘルメットを被りレースをスタートするセナの姿があった。店のおばさんがテレビを指差しながら「ジルだ! ジルだ!」イタリア語でそう言った。
ayrtonSena.jpg若くしてサーキットに散ったフェラーリーの「ジル・ビルニューブ」のことだと、すぐにわかった。
セナと同じように、天才と呼ばれ、今なお語り継がれる伝説のレーサーだ。御大エンツオに見い出され電撃的にフェラーリー登用。1982年べルギーGPで、わずか5年のF-1のキャリアを閉じてしまったジル・ビルニューブ。それを聞いてセナの死を知った。
右京が世界のトップを"つかの間"だけど疾走したその日に、セナがこの世を去るとは----------。

呪われたサンマリノ。関係者はこの94年5月1日のサンマリノGPを云う。F1でここ5年間死亡事故は皆無だった、しかしサンマリノでは、一度に2人の犠牲者をだしてしまったからだ。もう一人の犠牲者は、決勝の前日の公式予選で時速300キロ近い速度でコンクリート壁に激突。オーストリア人のローランド・ラッツェンバーガー、ほぼ即死だった。
偶然にもラッツェンバーガーは、右京の全日本F3000時代の友人だった。事故を見て、マシンから降り、真っ先に彼のクルマにかけつけたのも右京だ。救急隊の手によってクルマから出されたラッツェンバーガーは、その場で心臓マッサージを受けたが、既に絶命していた。
この二つの事故は、通常ではミスを起こさないコーナーでのクラッシュだった。セナのスローを見ると、ぶつかる瞬間までステアリングで回避行動をとった形跡がなかった。ウイリアムズが開発中のコンピュートサスペンションが壊れてステアリングをロックさせてしまい、セナは成す術がなかった。と云う説もある。
村松栄紀、小河等、ローランド・ラッツエンバーガー、右京が友人と思ったドライバーが次々とこの世を去った。そしてセナまで。
94年のポイント5を獲得してグレーデッド・ドライバーに名を列ねた右京だが、翌95年のテイレル023は一転してバランスの悪いマシンに変じた。理由が判らない、そのままノーポイントで97年まで戦って、右京はF1を去った。

右京がまだF1でノーポイントの頃の、彼のギャグを披露しよう。
「あれぇ、向こうから来るのは狼かな?頭の毛がはげてるぞぉ」
「あれぇ、耳が半分かじられてるから虎かなあ?」
「いや、ちがうぞ。口が歪んだクマかなぁ」
「へんだなぁ。まゆ毛もないのにこちっちを見てるぞ。」
「---------。」
「ああ、ニッキ・ラウダさんだ。」
集まった記者達は大爆笑だった。
もともと、記者達にやってくれと頼まれた、右京オリジナルの小咄だ。
レースの話題より、そのトークで存在感を示した最初の日本人、それが片山右京だ。

*ニキ・ラウダはニュルブルックリンで瀕死の大事故を負ったが、不屈の精神で復帰、その後10年で3回のワールドチャンピオンに輝いた70年代のF1スーパースターだ。顔にひどい火傷痕が残ったまま平然とレースし、Aプロストに0.5ポイント差で3度目の世界チャンピオンを獲得して引退した。

<文中敬称略で使用させていただきました。>



BACK_ICN.GIF右京、F3000チャンプに

thomTOM, およびtTt_factoryは商標および登録商標です。
E-mail:thom7gashima@yahoo.co.jp © 2005 tTt All rights reserved ™