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ミリオンカード
カップレースROUND2
開催日:1991年05月26日
開催場所: 鈴鹿サーキット
天候: 晴
参加台数: 28台/ベストラップ: 0:01:52.316
決勝


順位車番ドライバー
マシン
タイム周回数
13片山 右京
CABIN T90 DFV
1:03:38.74634
221小河 等
KYGNUSTONENLOLA
1:03:42.66334
310VOLKER WEIDLER
KAWAISTEEL T91
1:03:44.48234
411EDDIE IRVINE
コスモオイルローラT90無限
1:04:33.76934
577鈴木 利男
UNIVERSAL LOLA
1:04:34.85834
64GEOFF LEES
伊太利屋HAYASHIRT23
1:04:47.83834
799中谷 明彦
TOSTEM LOLA T90
1:05:07.58834
888和田 久
CAPCOM T-90
1:03:39.73633
922太田 哲也
CSK T90/50
1:05:17.58333
1090JAN LAMMERS
オムロンF102
1:04:33.07832
1125ROSS CHEEVER
PROMISEREYNARD9
1:03:58.97031
1257PAULO CARCASCI
ACE−BMS・T90/無限
0:00:00.00030
1320影山 正彦
KYGNUSTONENLOLA
1:05:10.88830
 35JEFF KROSNOFF
FVGROUPOBAYASHI
0:00:00.00029
 5長谷見 昌弘
スヒ-トスタ-T90/無限
0:00:00.00026
 15田中 実<
レイトンハウスRT23無限
0:00:00.00024
 24JOHNNY HERBERT
SUNTORYWESTRALT
0:00:00.00021
 8松本 恵二
ホ-ユウF102
0:00:00.00021
 1星野 一義
CABIN T90−50無限
0:00:00.00016
 12黒沢 琢弥
PIAAラルトRT23
0:00:00.00013
 34MAURO MARTINI
ライヘ゜ックスDL LOLA
0:00:00.00011
 16関谷 正徳
レイトンハウスT90無限
0:00:00.0008
 2中子 修
CHERENA LOLAT90
0:00:00.0008
 98服部 尚貴
PLUS LOLA T90
0:00:00.0007
 27舘 善泰
ALEXEL-T90
0:00:00.0007
 23古谷 直広
ワコ-ル T90
0:00:00.0005
 44金石 勝智
AVON HOUSE T90
0:00:00.0005
 9THOMAS DANIELSSON<
アコムエホ゛リュ-ションT91
0:00:00.000 

歴代チャンピオン】
フォーミュラーニッポン
2004リチャード・ライアン
2003本山 哲
2002ラルフ・ファーマン
2001本山 哲
2000高木 虎之介
1999トム・コロネル
1998本山 哲
1997ペドロ・デ・ラ・ロサ
1996ラルフ・シューマッハ
以下全日本F3000
1995鈴木 利男
1994マルコ・アピチェラ
1993星野 一義
1992マウロ・マルティニ
1991片山 右京
1990星野 一義
1989小河 等
1988鈴木 亜久里
1987星野 一義
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ついにシリーズ・チャンピオンに
1990年
時代が平成にかわって2年、片山右京は全日本F3000選手権で闘っていた。カミカゼ右京と本場フランスでとった異名が、ここ数年で廃れてきたな、と自分ながら感じていた頃だ。
右京はなんとなく「つまんね。」とこぼすことが多かった。成績に対する不甲斐なさと、チームの体制に対する不満がそこに入っていた。
ようやく90年、当時のトップチーム、キャビン・レーンング・ウィズ・ヒーローズのエースドライバーとして契約するまでになった。ここでチャンプになれなければ、辞めた方がいい。右京は自分でもそう思った。
初戦はリタイア。だが、まだ始ったばかりだ。
この2年間、全日本F3000選手権は片山右京、星野一義、小河等が3強だった。
1989年は、小河等がシリーズ・チャンピオンになり、彼はF1でなく、トヨタのワークスとして、世界スポーツカー選手権にステップアップしていった。
日本ではF1でなければレースであらず、の風潮が強いが、ヨーロッパではスポーツカー人気もかなり高く、そこでのワークスドライバーはF1ドライバーに匹敵する人気だ。和製アランプロスト、小河はトヨタを選んだ。

90年のF3000選手権の第2戦は富士スピードウエイ。
その3日前のスト走行の日、後輩で友人でもある村松栄紀がフットワークチームと一緒にきていた。
前年まで右京が乗っていたフットワークはマシン特有のクセから操縦性が悪かった。右京の後釜に友人の松村が乗るということで、右京は親身にアドバイスした。

テスト中に赤旗が振られてその場で停止をした。右京のの前を走っていた白いクルマが100Rの辺りでクラッシュしたのを見たのだ。村松だった。そして死んでしまった。
レーサーの死を目の当たりに見たのは初めてではないが、この時始めて「恐さ」を感じた。

3日後、F3000の第2戦が富士スピードウエイで行われ、右京は決勝では3位に入賞し、富士スピードウェイで初めて表彰台に上がることができた。
1990年は、その後も2位、3位を取ることがあったが、結局優勝はできなかった。
総合で5位。日本一速い男、星野一義が雪辱のシリーズ・チャンピオン。2位が小河等。
辞めた方がいいかな。でも、周りをみてると、右京は辞めるとはいえなかった。

翌1991年の第1戦、右京はポールポジションでスタートして、夢中で小河等とバトルした。
結果、2位小河に僅か〇・六秒差の優勝。F3000名勝負のひとつとして語り継がれるレースだった.

チェッカーフラッグを受けた直後に 右京のクルマはエンジンブロー。2位の小河のマシンのサイドポンツーンにつかまって右京はコースを一周した。
コースを一周する間、右京はレースの興奮をオーバークールさせながらある一つの事を考えていた。マシンという道具を使うカーレースは、自分以外の要素が80%関与してくる。
エンジン、シャーシー、ブレーキ、タイヤ、空力など、ドライバー一人では操作しきれない要素を、チームという人間達でチューニングするのだ。時には、メーカーのエンジニアがきてエンジン単体を調整する。まさに総合芸術だ。
ドライバーがすることは、アクセル、ブレーキ、クラッチの各ペダルとステアリング操作のみ。
もちろん、各要素のチエックもドライバーの仕事だが、極端なことを云えば、アンダーがコーナーの途中ででる、ただ、その一言で、スタッフは各パートに別れて原因を究明する。
サッカーのフォワードに似ている。点を取るためだけに相手ゴール最短距離に位置するそれは、味方のチャンスボールをひたすら待つ。
そして、きたボールを高い確率でゴールネットに叩き込まなければ、フォワード失格だ。
ステアアリングを握るドライバーが「恐い」だの「つまらない」などと云うべきではない。
このレースで吹っ切れた右京はこの年、ついにF3000のチャンピオンになる。
そして、翌年は世界のF1へステージを上げていく。

toyota_ts010_04.jpg92年、勇躍挑んだF1でリタイアの連続の頃、トヨタのグループCカー"TOYOTA TS010"でスポーツカー世界選手権にフルエントリーしていた小河は、イタリアのモンツアで初優勝を遂げた。
ジェフリースと組んでの参戦だが、4輪のFIA世界選手権格式のレースで日本人+日本のマシンでの優勝は、日本開催のWEC('85年)で日産+星野に次いで2人目だ。
電話で祝福すると、小河は参加台数が少ないから優勝できただけだ、と事も無げに言っていた。この分なら、年内に2、3勝できるとも言っていた。
F1で世界の壁を目の当たりにしていた時期だけに右京は帰す言葉がなかった。
その小河が、帰国してスポット参戦で臨んだ5月の鈴鹿サーキットF3000選手権であっけなく死んでしまった。

<文中敬称略で使用させていただきました。>



NEXT_ICN.GIF右京がトップを走った日

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